今も、その志とノウハウは受け継がれ、上野で漢方の相談・販売を行うこと90年以上の漢方専門の老舗。親・子・孫と三代続く顧客も少なくない。
建林松鶴堂の明日への願い
自然に逆らわず、限りない愛情を、かけがえない生命に!
今も、その志とノウハウは受け継がれ、上野で漢方の相談・販売を行うこと90年以上の漢方専門の老舗。親・子・孫と三代続く顧客も少なくない。
建林松鶴堂の明日への願い
自然に逆らわず、限りない愛情を、かけがえない生命に!
創業者 建林 宰亮 は、薬剤師として新潟医専の勤務している時、高熱を出し病に臥したことから始まる。その高熱はドイツの最新の薬でも全く効果がなく、衰弱がすすむ。死を覚悟したのか宰亮は郷里に連絡した。すると郷里から漢方の書物が送られてきた。
建林の家系は江戸時代、周防の国(山口県東部)脇本陣を営んでいた。本陣に次ぐ身分の高い者が、利用する宿場であった。大名行列の藩医など有能な医師達も常連で、得難い秘伝の処方や書物を譲り受ける機会に恵まれ、実際に病を患う旅人達に治療を施し感謝されていたという。 宰亮は、一向によくならない入院患者を気の毒に思い、自分も救われた漢方薬を患者本人と家族の了承を得て、服用してもらった。
すると重病の患者が、次々と良くなり退院していくではないか。不思議に思った医師達は、これはどうしたことかと患者から話を聞きだすと、漢方薬を服用して治ったことが分かった。難治の重病者を診察してきた医師達は、宰亮の漢方薬を治療に取り入れることにした。
医師の診断をもとに漢方処方を選定し、効果を確認・検討しながら漢方の治療が始まった。
ただ医薬書に載っている処方のままでは、効果に限界があったという。普通なら少しでも、良くなればと妥協するところであろうが、ここで終わらなかった。効果が不十分であれば生薬を加減して、より日本人に合う、より現代人のライフスタイル・疾患に合った処方の開発に着手した。それからは漢方の医学書を全国から集めては、寝る間を惜しんで研究した。医師と共に現代疾患に適応するために病状を確認しながら、開発した処方の効果を高めていく。
活躍の範囲は拡大し生活習慣病など慢性疾患、難治・効果不十分の外来患者に対しても医師から相談を受けるようになった。
漢方に専念して、もっと多くの苦しむ人々を救いたいと決意し上京、大正8年に漢方薬局 建林松鶴堂を始めた。当時は漢方一本の漢方薬局は少なく、持病、難病を抱えた人々が口づてに聞きつけては、南は鹿児島から、北は北海道まで、薬を求めにくる大勢のお客で連日大忙しであった。
そして薬科大学に進学すると、跡継ぎも決まり安心したのか宰亮は亡くなった。その日は4月というのに東京では大雪が降った。大酒飲みでカッと血が上りやすかった宰亮は、満州に渡ったときから脳卒中を発症し漢方薬で幾度と治してきたが、最後は狭心症であった。時代の 変遷 に伴い、新処方の立方されるべきこと、 但し、現代医学・薬学と共に在ることが、 建林松鶴堂の進む道である。 建林 頌雅(邦信)
平成23年佳壯が社長となり、邦信は会長へと代替わりした。邦信は現在、母校の明治薬科大学の客員教授となり、多くの薬学生に漢方の世界観を伝えるなど、日本の漢方の発展に寄与する取り組みを活動の中心においている。