建林松鶴堂の歴史

西洋医学から東洋医学へ

建林松鶴堂 創業者
建 林たてばやし 宰 亮さいすけ

創業者である建林宰亮さいすけは西洋医学・薬学を学び、新潟医専(新潟医科大学病院)に薬剤師として勤務していました。しかし自ら高熱を出して病に臥したとき、当時の最先端であるドイツの薬でもまったく効果が得られなかったことが、東洋医学の再発見につながっていきます。死を覚悟した宰亮が郷里に連絡を取ると、郷里から送られてきたのは漢方の書物。書物から柴胡剤の薬方を調合し服用してみると、たちまち効果が表れて症状が消えたのでした。

自らが救われた漢方薬を学ぶ日々がはじまります。一向に良くならなかった重病の患者を次々と回復させると、医師たちは宰亮の漢方薬を採り入れるようになりました。漢方の医学書を全国から集めては、日本人・現代人に合った処方に改良していく研究の日々。活動の範囲も、生活習慣病などの慢性疾患、難治の外来患者へと拡大していきました。書物から得た知識を実際に使いこなすことで、宰亮は漢方処方・生薬の妙(効能、組み合わせ、比率など)を修得し、次々とオリジナル処方を生み出していったのです。そして一人でも多くの人の力になるべく、大正八年、漢方薬局建林松鶴堂が生まれました。

建林松鶴堂の発展

建林松鶴堂 二代目社長
建 林たてばやし 静 枝しずえ

建林松鶴堂の発展を担ったのは、妻として宰亮を支え、やがて二代目となった静枝しずえです。戦後の混乱期を越えて社長に就任すると、戸田工場の新設や漢方薬のエキス顆粒剤の開発と製造を開始。全国にも営業所を広げTVコマーシャルなども放映されていましたから、ご年配の方ならば「漢方と言えば建林松鶴堂」とご記憶の方も多いでしょう。

まだいずれの漢方製剤メーカーも大きくはなかった時代、業界内で旗を振り「日本漢方製剤協会」設立に動いたのも静枝でした。時代背景を考えても、辣腕を振るう女性社長の姿は珍しいものであったと思います。

良質な漢方薬を追求して

建林松鶴堂 会長
建 林たてばやし 邦 信くにとし

長男であり三代目となる邦信くにとし(現会長)は学生時代から店頭に立ち、父親の宰亮から漢方のイロハを学びました。邦信もまた研究熱心でしたから、薬科大学に進学して現代薬学を学ぶとともに、漢方の書籍を集めては研究を重ねました。親子二代に渡って集められた書籍の数々は今では手に入らない希少なものも多く、現代の漢方研究者の方々に驚かれることも多くあります。

時代は移り変わり、一般の方がお薬を手にするのは医師の処方やドラッグストアになっていきます。漢方薬もそのようなフィールドに広がることになるのですが、私たちはどうしても大量生産・効率化の道を選ぶことはできませんでした。生薬を素材とする漢方薬は、品質を保とうとすれば自ずと生産量が限られてしまいます。商売を優先して品質を落とすことは、私たちの目指すものではなかったのです。

これからの漢方医療の担い手として

建林松鶴堂 代表取締役社長
建 林たてばやし 佳 壯よしたけ

現代の医療現場において、漢方薬のはたらきが改めて評価されはじめています。身体本来の状態を取り戻すために、西洋医学と東洋医学が共に補いあってゆく。現代医療はきっと、そのような方向に向かっていくことでしょう。しかし東洋医学・漢方の世界が、まだまだ研究の必要な世界であるのも事実です。私たちの果たすべき役割はここにあります。

平成23年に建林佳壯よしたけが社長となり、建林松鶴堂は新しいステージへと向かっています。伝統を守り、そして発展させること。建林松鶴堂には膨大な漢方の知識・経験の積み重ねがあり、漢方研究の最先端であるという自負があります。だからこそ、漢方の世界を発展させる責務があると考えています。

私たちは漢方を通じて、人類に貢献します。

漢方薬は世界中の人に効果があるのか

昔話をひとつご紹介します。宰亮の健在であった時代、国連軍より兵士たちの高血圧を改善する薬を求められたことがありました。人種も国籍も多様な兵士たちでしたが、宰亮の処方が功を奏して見事に症状が改善、イール准将より賞賛のことばを頂いたということです。

ただ一人効果が発揮されなかったのが、インド出身の兵士。普段から様々なスパイスに慣れた身体には、通常の漢方薬では刺激にならなかったのでしょうか。人間の身体の奥深さを感じさせるエピソードです。